- 死人に口なし ~3.11東日本大震災の真実を求めて~

待っている 時に限って 来ないもの

……などとつい川柳を書いてしまったが、得てして現実というものはそういったものだったりする。


過去記事に書いた一連の経緯を経て、私は【R-18】東日本大震災の「真実」2012-2013【宮城:石巻周辺】Prologueの制作に取り掛かった。

震災から一年が経って、今日本で起きている現実。
綺麗事を取り払った、被災地の人々や他地域の人々の本音の部分。
そして時が流れたからこそ今自分が感じている違和感や様々な温度差…。
そういったものを今度は自分自身の体験談を交えて発信して行こうと思った。

まずは「序章」として、これから発信して行く内容の予告編的なものにしようと。
しかし今にして思えば、自分自身の中ですらもまだ伝えたいものの整理が付いていないまま、見切り発車的に作っていた感は否めない。

「これは荒れるだろうし、場合によっては自分の首を絞める事になるかもなぁ…」
作っている時点でそういう予想はしていたし、過去にアップした"【R-18】マスコミが報道しない東日本大震災の「真実」【宮城:石巻周辺】"の時のように再び非難の声を浴びる覚悟はあった。

もっと正直に言えば、批判が起きるのを“狙って”すらいた。
あのイヤらしい【R-18】を再びタイトルに付けている時点でもう確信犯である。
まずは人目を惹かなくては、そこから先は見てくれない……
そういう所、私は一応元広告デザイナー()としての性というか、我ながら本当にあざといと思う。

がしかし、「どっからでもかかって来やがれ!」そんな意気込みでいざ序章を作ってアップしたものの、当初は殆ど反応が無くて私は肩透かしを喰らった。

やはり時が経って、人々の震災への関心は薄れている…。
地元の現状を動画という形で発信して行くということも、需要がなくなるにつれ私の役目もやがて終わるだろう……

それに序章をアップしたはいいが、今回は内容があまりに広い範囲に及んでしまった。
ましてやこれから数年経たなければ答など出ないであろう放射能問題にまで。
何より私自身が、これはどこから手を付けていいものやら頭がこんがらがってしまっているという情けない状態に陥っていた。


次第に私は地元震災関連の動画作りから遠ざかって行った。

大切な家族を失った悲しみや理不尽さ、やり場のない想いが癒える事はなかったが、なんだかんだで新たに移り住んだ仙台での生活はこれまでより格段に便利で快適なものだった。
気が付けば私は平和な日常の中にすっかり埋没していた。


そんなある日、あれは確か昨年の11月頃であったろうか。
私の元に、YouTubeの新たなチャンネル登録者の通知メールが届いた。
「あら、新たなチャンネル登録者なんて久々だなぁ…有難い」
なんて最初は呑気に思っていたが、この日を境に毎日のように、
「○○さんがあなたのYouTubeチャンネルを登録しました~」
という新たにチャンネル登録をしてくれた人が出た時のYouTubeからの通知メールが何通も届く……

ん? これはいったいどういう事だ??
明らかに今、自分がアップしたYouTube動画に関して異変が起きている!

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震災と「感動 」~その2~

アメブロの方にも記しているが、私は地震当日の11日午後から14日夜まで仙台駅の至近に居た。

11日の地震中・地震直後に宮城は県内ほぼ全域で停電・断水したが、仙台駅前の一部地域は翌12日の午後1時頃には電気が復旧。
更に私が当時通っていた訓練校のあるビルは水道も復旧しているとのことで、私は地震後行動を共にしていた人達と共に、帰れる手立てが確保出来るまでの間、このビルの教室内に滞在していた。
今にして思えば当時の宮城県内では最も恵まれていたであろう特殊な場所に居た。

だから出来たのだ。
ネットを通じて多くの情報や他地域の人々の言葉を得たり、安否発信をしたりといった事が。

震災後早々にまとまられ始めていた「地震後に寄せられたTwitterの心に残るつぶやき」の類も目に入っていた。
まだ何度となく余震が続き、家に帰れる手段すら目処が立たない。家族の安否が確認出来ず連絡が一向に取れない、入ってくるニュースも絶望的なものばかりだったあの状況下、これらの言葉はとても有難く、あの時の私達にとって心の支えともなった。

今こうしている間にも全国から、海外からも応援してくれている人々がこんなにいる!
彼らの言葉や行動に触発されて募金等してくれた方々も多いだろうし、全国の皆の助けがあって今の私達の生活があるのだから、感謝してもし切れない。

が、その後数時間と経たずにTwitterはじめ目に入ってくるネット上の書き込みの多くが計画停電の心配に傾き始めて、私は何とも云えぬ空々しさを感じた。
あの時は首都圏の人達も大変だったと思う。
けれど東北太平洋側はそれどころじゃない、一日二日帰れないとか数時間の停電を心配しているレベルの状況ではなかった。
ましてや今まさに生死の境目にいる人々が数え切れぬ程いたのだ。

まとめられたこれらのつぶやきの中に、数少ない現地から発信されたものとして、
「真っ暗で星空が見たこともないぐらい綺麗だよ。仙台のみんな、上を向くんだ!」
といった内容のものがあったが、正直、仙台(東部道路より西側)はまだ良かったんだよ……
あの時ネットを通じて安否発信をしたり言葉を発したり、これらの言葉を見ることが出来たのは、私達はじめ少なくとも被災地域の中でも安全圏にいた人々だ。
津波が全てを破壊し尽くし電気も水も食糧もない、あちこちで火の手も上がり、場所によっては雪が吹雪く寒さの中、それこそ生死の境目にいた人々はネットやTwitterなどとてもやっていられる状況ではなかったはずだ。

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震災と「感動 」~その1~

最近、人々は「感動」というものに余程飢えているのだろうか…?

2chまとめ系の記事等で最近何かと話題に上る、LINEのタイムラインに大量に流れる“ちょっとイイ話系”の異様さw
を始め、つい先日は「パセリ農家云々」の話がTwitterで何万RTもされ、「私、もうパセリ残さなーい(;_;)」なんて人々が急増してネットニュースにまでなるご時世。
この流され易さ、感化され易さといったものに、私はある種の危機感さえ感じてしまう。

だいたい、食べ物として皿に上るものの背後には汗水流して作り出荷している人々が居るという当たり前の事、残してその殆どが廃棄されているとなれば生産者はどんな気持ちでいるか、TwitterのRT見なくちゃ想像も出来ないなんて、ゆとりにも程がry
……おっと話が逸れて言葉が過ぎてしまった。
(ちなみに私は自宅で栽培している程、パセリは好物であるw)

私らが十代だった頃はそれこそ「シラケ世代」とか言われて、「感動」を口にしたり人前で涙を見せたりするのがなにかカッコワルイみたいな風潮があり、それはそれでとても嫌な時代だったが、最近の人々は逆にあまりに安易に「感動」というものを口にし過ぎではないだろうか。

「感動」は容易く口にし過ぎるとその言葉の持つ価値はどんどん低下し安っぽくなる。
ましてや私は、多大な人的被害をもたらしたこの震災を「感動」などで語り去って欲しくないのだ。
最近は、感動というもののハードルがあまりに低くなり過ぎているように思えてならない。


その最たる例が、幾つものYouTube動画や多数のサイトでまとめられている『地震発生後Twitterに投稿された心に残るつぶやき』の類のものに現れていると思う。

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東北はいいね 原発事故さまさまだね 

京都某飲食店クーポン

震災から一周忌を終えた頃、巷では新たな問題が起き始めていた。
被災地で出た瓦礫の広域処理に関する様々な軋轢。

震災から一年が経ち、私の故郷であり震災の半年前まで暮らしていた石巻市では、壊滅的な津波被害を受けた地域の瓦礫が片付き更地化した分、海岸沿いには集積された大量の瓦礫が山積みされていた。

私の記憶の中にある、家が密集し大通りに面してスーパーやコンビニ、様々な店が立ち並んでいた門脇~南浜町の風景は、人が住まない一面荒涼とした更地へと変化した。
そこから海岸沿いにうず高く積まれた瓦礫の山が見える。

門脇・南浜町からの瓦礫の山2012

写真では伝わり切らないが、現場で見てみるとこれを処理するのに何年かかるのだろうと思う途方もない量だ。
しかしこの瓦礫がまさか「放射能瓦礫」として全国に忌避される事になるとは予想外だった。

政府や各自治体は、震災で出た大量の瓦礫を現地では捌き切れないと、全国に焼却処理の分担を願い出た。
しかし“震災瓦礫には福島第一原発事故由来の放射性物質が含まれている”として、受け入れ側では反対運動が始まった。


そんな中、TwitterのRTを通して、私にとってとてもショッキングな言葉が目に入ってきた。
「東北はいいね。
阪神大震災の時は絆なんていって貰えなかったからね。
原発事故に感謝だね。
ちなみに言っとくけどさ神戸は未だに完全に復興してないから。
その点、東北の人はよく覚えといてよ。
阪神大震災の時はあきたらマスコミが報道やめたからね。
ほんと原発事故さまさまだね。」

京都のとある飲食店店主の言葉だった。

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天国にぶっ放せ!

天国へぶっ放せ告知

震災から一年となる2012年3月。
宮城では独特な空気が漂っていた。

蘇る恐怖、悲しみ、そしてあの日から一年という節目……

11日が近付いて来るにつれ、自分自身あからさまに不安定になっているのが分かったし、Twitterを覗いてみてもやはり多くの人々が精神的に不安定になりピリピリしてしているのが伝わってくる。

争い事も色々と起きていた。
ネットを開けば、地元民と他地域の人達、ボランティアで来た人々と被災民、しまいには地元民同士やボランティア団体同士の諍いなんてのが嫌でも目に入って来る。
(これらは震災瓦礫広域処理問題と相まって、やがて深い溝となる程に発展して行くのだが…)

中でも、11日に仙台で反原発デモを行おうとする反原発団体と、11日は追悼の日として静かに祈らせてくれという地元の人々の衝突は、Twitterを中心にかなり長引いていた。
「デモには反対していない。せめて日程をズラして欲しい」
という人々の声にも、デモの主催者は、
「11日に行う事に意味がある。追悼の邪魔にはならないよう配慮する」
と譲らなかった。

他県の人々にとっては"震災=原発事故"なのかもしれないが、少なくとも宮城でこの震災で大切な誰かを失った者にとって11日は、家族や恋人、友人知人等含め多数の人々が亡くなった追悼の日なのだ。


そんなギスギスした空気の中、私にとって救いとなるとても印象的なイベントがあった。
スコップ団主催の『天国にぶっ放せ!』というもの。

天国へぶっ放せポスター

仙台の泉ヶ岳から二万発の鎮魂の花火を打ち上げるという。
天国により近い高い山の上から震災で亡くなった一人一人の分の花火を、敢えて皆が生きていた3月10日に……

きっかけとなったのは、スコップ団団長が避難所で出会った初老の女性の言葉。
以下、団長ブログからの一部引用。

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「私の想いを、いつか天国に届ける企画を立ててくれないかしら?」
「分かった。考えます。チカラもつけます。」
「その時は、私は元気だよって彼に伝えたい・・・。」

これが【天国へぶっ放せ】の始まりです。
お墓へのお菓子やお花。
お供えは、合理的に考えれば無駄な事かもしれません。
でも、人間だからやるのです。
感情があるから、そうするのです。

私達もいつか死ぬ。
その時、感情が残っているのであれば、私はお供えは嬉しいと感じるだろう。

今回の花火は、お供えです。
雲が邪魔をしても、雲の上まで飛ばせば花火は見える。
スッと生まれて、ドンとキレイな大輪を咲かせて、散る。
まるで人生のようです。

咲ききることが出来なかった方が大半です。
だから、ドンと咲かせよう。

人生のような花火を、一番感謝すべき日だった3月10日に。

僕はどうしてもあげたい。

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震災から一年間、生き残った者を元気付けるイベントは山のようにあった。
しかしこれ程までに、死者の視点に立ったイベントはあったであろうか。

しかしながら、二万発もの花火を打ち上げるには当然の如く多額の費用を必要とする。
有志からの寄付を募っての開催となるわけだが、このイベントに対し、ネット上では批判の声も散見された。

「花火にそれだけの金を使うなら復興資金や義援金に回せ」
「二万発の花火を打ち上げてなんの意味があるのか誰か私に教えて下さい」

合理的ではあるがしかし、なんて夢も情緒も無い世の中なのだろう。
共に被害を受けた被災地、同じ県内ですらこうなのだから……
あれだけの災害の中、万単位の人々の命が奪われたとはいえ、なんだかんだで割合として見れば9割以上の人々は生き残った。
被災地と一括りにしても、身近な誰かを亡くした人もいれば、そうじゃない人もいる。

上記のような意見の人にはきっと解らないであろう。
どこにも持って行きようのない悲しみややり切れなさ、生前伝えられなかった死別した者への想いを、せめてこういった形で天に託すしかない人々の想いが…。

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